現代の若者

先日、以下のふたつの映画を続けてみたのだ。監督の世代がちがい、若者のとらえ方が違うのでおもしろかった。

17歳の風景 [DVD]

17歳の風景 [DVD]

14歳 [DVD]

14歳 [DVD]

17歳の風景』は若松孝二監督の作品である。作品としては、半分イメージフィルム的なところがあり、つまり、母を殺した少年が自転車に乗って日本の果てまで行くのを延々と撮り、時々、焚火にあたらせてくれるのは、なぜか実際の活動家とか批評家のような人で、その人が若者に語りかける、というような体裁のものだ。語るのは老人のほうで、若者は何も語らない。老人は、今の若者が理解できない、というような感じで語っている。語りたいことがたくさんある、という風に見える。
その若者の同級生の、チャラチャラした高校生の会話が印象に残った。うろおぼえなのだが、親はじゃあなんで子供を生んだんだ、というような言葉だった。勝手に生みやがって、みたいな感じの言葉だ。
高校生くらいのころ、親に「なんで生んだんだ、頼んだ覚えはない」のような言葉を言ったことを思い出した。父親は、「それは言ったらあかん言葉やろ」と怒っていた。

『14歳』は、30代前半の、廣末哲万という監督の作品である。こちらの方は、前者とはまったく違う世界が描かれている。私にとっては懐かしい空気が、懐かしい冷たい空気が流れている。思うに、戦争や貧困のような大きな問題がない(日本の中では)ところでは、生きることに大義名分がないのではないか。戦争のような中では、生きるということに正義があると思う。生き残りたい、いい生活をしたい、平和になってほしいという欲望は、正義として肯定されるだろう。戦争のような困難がないところでは、いい生活をしたい、生き残りたいという欲望は、ともすれば強欲のような、罪悪感がないだろうか。生き残るといっても、何もしなくても生き残れるので、生き残ろうとする欲望は必要がない。必要がないのに欲望をもたなければならないなら、演技をすることになる。
いや、こんな分析はこじつけかもしれない。時代ということでひとまとめにできない私だけの問題でもあるのだ。
いつも演技をし、それを恥じているような、不安なうすら寒い世界、つまらないいやな世界、だが自分がそこにいた世界が描かれていて、心が震えた。

syadoooo


私の好きなイケメンミュージシャンです。才能豊かでいろいろな試みをされていてすごいなと思っています。
興味ある人は
http://www.myspace.com/syadoooo
ここから連絡すればCD買えると思いますよ。


この歌い方、ぶっとんでると思う。背景の映像も自作されてます。


ストリッパーとのコラボ。素敵だな〜…。


西部講堂での詩人とのコラボもされているんですね。この詩人がまたすごいいいです。こんな朗読なら聴いてみたいし、またこんな風にできるなら自分でもやってみたいとも思う。感情を込めるでもなく演技をするでもなく声をはりあげるでもなく淡々と読んでいるだけなのに力があるなと思う。syadooooさんのギターがとてもよく合っている。

この詩人は「元祖ヒッピーのジャパニーズ ビートニク詩人 画家 活動家」のPONという方のようです。ヒッピー印“ポン”山田塊也のホームページ


おとぎの国の放浪詩人みたい。


同じ動画ですが、この間先生が言っていた「vimeo」というサービスではこうなります。

09.3.20 Look downward to the city below @GIFU japan / Syadoooo from syadoooo on Vimeo.

(柳川)

気合いの入った女性

最新号の『クロワッサン』の特集で「気合いの入った女性」というので、堀文子さんが掲載されていました。びっくりするほどお綺麗なお写真からもインタビューからも、「気合い」をひしひしと感じたことでした。内海先生もその血を引いておられるんだな〜という似ている部分も感じられました。
クロワッサン

堀文子展 2009・・・現在(いま)/ナカジマアート(銀座)

堀文子さんの個展を見てきた。会場にはたくさん人がいて、堀さんがお客さんとテーブルで話されていた。お話をされている堀さんのところにいろいろな人がかわるがわる挨拶にくる。綺麗な白髪がとても印象的な方だ。去年とおかわりなくお元気そうで、お綺麗で品があり、かっこいいなあと思う。
それは内海先生から、堀さんの印象的なお話をたくさん聞いているからでもある。
作品はいろいろな手法があり、経験の深さを感じさせる。
銀いろの地に、折り紙の切り絵の作品は、単純なのに品があった。折り紙自体はそれほど上等の紙ではない、ごくふつうのもののようなのに、きちんとした作品になっているのは、地塗りの銀色がとてもいいからだろうか。
それから、茶色の土のような地塗りの上に、素朴な文様のような図柄が描かれた作品は、土の上に描かれた古代人の絵を感じさせた。古代人の絵そのものだと思った。その絵に堀さんの野性的な魂のようなものを感じた。(柳川)

O JUN + 森淳一 「痙攣子(けいれんし)」/ミヅマ アクション

二人展だったのだが、作風がまったく違う。
一方は、抒情を一切排除したようなポップな風景画だし、もう一方は、肉体の部分を思わせる、おぞましさを感じさせるオブジェ作品だ。
だが、一緒に展示されていても不自然さがない。
一方は軽く表面的な表現だが、その底にはおぞましさが潜んでいる、そんな構造を感じさせた。むしろ、一方の作品の軽さがおぞましく、一方で肉片に歯がめりこんでいるような複数の入れ歯が融合したようなオブジェのもつある冷徹さを感じ、ここでも抒情的なものが切り捨てられているように感じた。
こういう展示もあるのか、と感心した。
(柳川)

アイ・ウェイウェイ展−何に因って?/森美術館

現代中国の状況は、人を混乱させるものなのだろう。
その中で、単純でシンプルなことから何かをひとつずつ確かめるような作品を創っている、という感想を持った。

そして、作品はすべて重量と、大きさと、歴史と、歴史に対する問いを持っている。モノそのものの力を感じる。

たとえば1トンのプーアール茶の葉で創られた1メートル四方のキューブや、レンガ状に固めた茶で組み立てた小屋など、伝統的に存在しているものを使って(プーアール茶の葉とは固めて保存し発酵させるものである)、それが用途とはまったくべつのものとして表現されている。
あるいは、唐時代の貴重な壺を割ったりコカコーラのロゴを描く行為。
今まで積み上げられてきたものがあり、それが現代ではどのように扱われているのか。今まで信じてきたものは何だったのか。

「文化的、歴史的、社会的な因果関係、「何が何に因って在るのか」、そして「自分はどこから来て、どこへ行くのか」」という人間的な問い…。

そしてまた、「ドクメンタ12」での、1001人の中国人をドイツの会場に連れて行きその存在を作品とするプロジェクトのドキュメンタリー映像で見たアイ・ウェイウェイは、詩的な言葉を話し、いつも革新的であろうとする、まさに芸術家という感じがした。
その中で、連れられていった中国人たちに、アイ・ウェイウェイをどう思うか、というインタビューをした場面があって、いい人、優しい人のような感想の中で、いつも何かたくらんでいる気がする、という答えがあって面白かった。私たちをドイツに連れてきて、楽しかったが、アイ・ウェイウェイはこの事によって評価をえて、賞賛を受けるのだ、自分にはそういうことはできない。
素朴に生きている庶民と、芸術家とは、共有できる部分と出来ない部分、というものがあるのだと思う。(柳川)


★おまけ★



内海信彦講演会 『芸術と医術の和』 /医科歯科大学

医療は医療技術のことだけを考えていたらいいのか。

ひどい俗悪な絵のかかった病院で、睡眠薬を5種類出されても、先生の話を聞くまでは素直に受け入れていたかもしれない。ボタンを押すように従順に権威にしたがっている自分。

アジ演説とはこのようなものなのか?と思い血が騒ぐようだった。

にわかに、今まで医者にかかった経験、そこでただ医者という権威の下に従順だった自分、鼻に管を突っ込まれそうになり怖がったらとても高圧的な態度になった医者、薬品のにおいのするひどいセンスの待合室に座らせられたことも当然のように受け入れていたことを思い出した。それに腹を立てることすら思いつかなかった自分。自分を責めていた自分。
怒ってもいいのだと、あらためて気づくことができた。人間の尊厳である。

美学校のようなところではなく、医科歯科大で、医療を学んでいる人や教えている人の前で話したことがより革命の血を騒がせたように思う。
(柳川)