偽装建築BAKAHAUS/中島 晴矢 パフォーマンス/東大
BAUHAUSのパフォーマンス化を試みた私の表現は、何故「偽装建築BAKAHAUS」に
至ったのであろうか。
この表現はつまるところ、私自身がバウハウスを内在化できなかったという、
不可能性の表出である。半ば伝説と化しているバウハウスであるが、私は、バウ
ハウスにどうしても新鮮味を覚えられず、既存の価値観をひっくり返され戦慄す
ることもできなかった。何故か。
1910年代から始まったバウハウスは、正に「近代(モダニズム)建築」の出発
点であった。大量生産用、工業用にデザインされた建築や家具は、表現主義的な
要素を省いたスマートなフォルムでかたちづくられ、合理主義的で機能主義的な
側面を色濃く宿している。例えばヴォルター・グロピウスは、幾何学的形態など
の抽象性を特徴とするロシア構成主義の影響を強く受けた教育方針を示している
。またハンネス・マイヤーは、唯物論の観点から、規格化、数値化、軽量化を徹
底し、合目的性、経済性、科学性を重視する立場をとっている。つまり、バウハ
ウスとは、近代主義そのものであった、と言っても過言ではないのだ。
しかし私たちはいま、アンソニー・ギデンズが言うところの、「再帰的近代」
という近代の第二段階にいる。成長、発展などの近代の概念が頭打ちになり、ポ
スト伝統社会の中で、システムが全域化した環境を生きているのだ。そのような
状況下に於いて、生活世界には、大量生産用、工業用にデザインされた物々が既
に溢れている。というよりも寧ろ、私たちの身の回りには、そういった物々しか
存在しない。例えばニュータウン育ちの私にとってのふるさとは、システムによ
って都市計画的に設計された環境であり、そこでは所謂自然ですら再帰的にゾー
ニングされた人工物に過ぎない。つまり、成熟した近代に於いて、近代建築は既
知性に満ちているのである。
よって私は、近代の権化たるバウハウスを、リアリティーをもって内在化する
ことはできなかった。以上を踏まえた上で、尚バウハウスに纏わる表現を試みる
ならば、崇高な芸術運動としてのバウハウスではなく、美術史の文脈上に権威と
して存在するバウハウスをギミック(小道具)として用いるしかない。そこで私
は芸術でなく、芸能の文脈を参照した。松本人志の映像作品、『一人ごっつ』内
の、「タイムスリップショッピングダンス」に大枠を依拠し、高一の時はじめて
見て今までの世界がひっくり返る程の大笑いを喚起させたそれへのオマージュと
して、パフォーマンスすることを試みたのだ。
その意味に於いて、私は「ギミックとしてのBAUHOUS」という《偽装》を行った
。
これは「偽装建築」である。
結果、私の表現は、「偽装建築BAKAHAUS」として、トランスじみたチープなBGM
の元、全身白塗りで性玩具であるバイブを装着し無闇に踊り狂いながら―ここに
は暗黒舞踏の文脈も含意されているが、猿真似でしかないので言及は省く―バウ
ハウスに関連する意味を欠いたタームをひたすら叫び続ける―「グロピウス!」
「唯物論!」など―という、よくわからないものに帰結したのであった。
ただ、理屈はどうあれ、この表現の強度を示唆する決定的な事実がある。
「偽装建築BAKAHAUS」は、スベッたのである。(中島)